喪失感を制御する

「そう。殺すってことはですねえ、相手から奪うことではなくてですねえ、相手に与えることだって、そう考えることですよお、はい」(P30)





日常と非日常。

その境界は曖昧で、非日常は日常の延長線上にある。

では、その境界線はどこにあるのか。

日常と非日常を分けるもの、それはa felt sense である。

主人公は、「自己の存在を否定したくなるような痛み」にリアルを見出す。

見えないもの、感じられないものは、自分の世界に存在しないも同然である。



見るに耐えない厳しい戦場の映像を、眼前に突きつけられる。

それをみて、戦争はあってはならないものだと、消極的に否定する。

しかし、戦争はしてはならないものだとする積極的な否定には発展しない。

なぜなら、人々の意識に、現実味を帯びた戦争の形が存在しないから。


見えるものとしての「現実」を押し付け、主体的なリアルを感じさせなくする。

押し付けられた「現実」の生む衝撃が、思考停止を生起する。



一見温和だが、外国における戦争経験を持つ「主任」、

戦争に反発しつつも、町のために戦う「弟」

行政員として戦争業務に無感情に従事する「香西」、

そして、戦争を感じられないまま戦争に参加する主人公。


隣町との戦争は、

彼らの望む・望まないに関係なく、

すでに起こってしまったものとして存在している。


非日常ではなく、日常として。



人は、

戦争によって、何かを失っていく。


となり町戦争によって、

ある人はその人特有のリアル感覚を奪われ、

ある人はその人特有のリアル感覚が過剰に働きだす。


失われていくのは、

それまで彼らの中にあった“リアル”の枠組であり、

日常と非日常の境界ではないか。



失うことで制御できなくなった者は失踪する。

失うことに反発したものは戦死する。

失うことを受け入れた者が生き残る。



全てを失うことは、全てを得ることに等しい。



となり町戦争 (集英社文庫)

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